🗓 2019年09月05日

サッカー少年

 

私は、高校1年生までサッカーをやっていた。出身の神指中学校は、農村地域にあったのだが、2年先輩の時に福島県大会で優勝したサッカー名門校であった。進学して会津高校に行ったのだが、他中学校出身者と比べ技術的に数段うまかった。旧市内のナンバースクール(当時は1中から4中)は生徒数が多くてもサッカーに関しては、わが神指中出身者にとってはレベルが違った。神指中から一緒に会津高サッカーに入ったO君は、6か月もしないで辞めていた。従って、1年生の時、秋の新人戦にメンバーに入ったのは私と3中出身者のK君だけである。他の同級生10数名は3年生までサッカーをやっても、試合に出た人は数名であろう。運動部出身者ならわかるがレギュラーになるのは大変なのである。

夏になると卒業生数名がやってきて、一週間くらいの泊りがけの合宿が行われた。そして、OBが練習メニューを作り、指導する。飯盛山の階段をうさぎ跳びで上がるなどは序の口。

昼間しごかれた私たちは、食事後、深い眠りにつく。朝起きて、同級生の顔を見てお互いに笑う。赤チンキを1年生全員が塗られていて顔が真っ赤なのである。人の顔を見て笑っていると、鏡で自分の顔を見るとやはり真っ赤かなのである。こういういたずらは、疲れ切った合宿日の最終日近くに行われる。

このような先輩の進学状況を調べてみると、一番レベルの高い大学は、東京教育大学(現筑波大学)1人であった。このまま続けたら学業は進むまいと判断し、1年で辞めた。

ところが、戦力ダウンを恐れた1年先輩は、「退部費を払わないと辞めさせない。」という。仕方なく事情を父親に話し4500円(昭和46年頃はそれなりの大金:何故4500円なのかわからないが金額だけは覚えている)を支払った。

退部して時が過ぎ、校門を出て国道を少し行ったら、「岩澤」と私を呼ぶ声がした。どこから聞こえてくるかと見回すと腹をすかした私たちが「買い食い」していた商店だった。何と私から巻き上げたお金で1年先輩たちが、そこで「焼きそば」を食っていたのである。お前も食えと一緒に焼きそばを食べた。なんか釈然としない気持ちで食べたけど、そもそも退部する時に退部費を払うという決まりなどなく、サッカー部に規則自体存在しなかった。

会津に帰って数年経った頃に、同級生I君と飲んでいたところ同じ居酒屋でばったり私から退部費を巻き上げた先輩の内の一人Hさんがいた。45、6年ぶりに会った。その上の級で早くにサッカー部を辞めたSさんもいた。野球部であったIくんも1年先輩のH、Sさんと知り合いだった。そこでI君と私は「Hさんは、ガンで余命6か月」であることを聞いた。ところがここが「天下の名門会津高校」の面目躍如。「Hさんと人生最後のゴルフをやろう。」とI君が提案。衆議一決し磐梯ゴルフカントリーにおいて4人でゴルフをプレーした。何と余命幾ばくもないと宣告されたH先輩のスコアーが1番良かった。その時、今生きている我々3人がH先輩のためにできることは最後のゴルフを共にすることであった。

16歳の時、サッカー部を辞めるときに理不尽に思い、嫌な人と今まで思ってきたが、時が過ぎ、穏やかな人になっていたH先輩のご冥福を祈る。

(文責:岩澤信千代)