🗓 2019年11月07日
美空ひばりと石原裕次郎
雪深い田舎で昭和に生まれた私は、テレビで歌謡曲を聞くのが楽しみであった。高校を出て東京の大学へ行くまではNHKの紅白歌合戦を毎年見ていた。私の家にテレビが入ったのは東京オリンピックの時だろうか。
テレビが普及する前に同級生が抽選に当たり、テレビに出た。同級生が出るというので全員が小学校の「理科室」でテレビを鑑賞した。クイズ番組だったろうか。友達が景品「下駄」に当たったのを覚えている。わざわざ東京までいって当選したのは、「下駄」であったのは気の毒であった。「新婚さんいらっしゃい」でいえばタワシと同等である。我々同級生は、憐憫の情を以て笑うしかなかったのを覚えている。
今でも地元出身の春日八郎の「別れの一本杉」などを聞くとジーンと胸に迫るものがあるが、昭和の歌手と言えばやはり、昭和に生まれた美空ひばりと石原裕次郎である。
二人の共通点は、生年月日も近く逝去されたのも2年違い、50代前半でその生涯を終えたことである。
私は札幌に家族で赴任し2年間を過ごした。子供たちには過酷な転校をしいた形になって、今では申し訳ないと思っている。次男は東京の田無(現西東京市)の時より、成績が良くなり勉強に熱が入った。成績の良かった長男は、転校して物足りなさを感じたようだ。
その頃は、小樽に「石原裕次郎記念館」があり何度か訪れた。東京から来たお客を連れて行ったことも多々あった。10歳くらい離れた上司の持ち歌であったので札幌にいた時は、裕次郎の歌をカラオケであまり歌わなかった。「赤いハンカチ」「北の旅人」が好きで東京へ戻ってからは、よく歌った。
札幌に行く前の30代の頃は吉祥寺のスナックではママの持ち歌であったので「夕日の丘」をデユエットでよく歌った。
時が経ち、横浜に住んでいた時に石原裕次郎の命日に「何回忌」かがあり、妻と二人で曹洞宗総本山總持寺に向かった。鶴見駅を出てからすごい行列ができていて並んだがほとんど前に進まず、観念して駅近くで、ランチを食べてすごすごと帰ったのを覚えている。
会津に帰り、「太陽の季節」の看板名を見て、入った。そこは、ママが熱烈な石原裕次郎のファンで、店内いっぱいに石原裕次郎の写真やポスターが飾られていた。
そこでは、大学同窓会の県支部大会が会津若松であり、福島市から来た同窓生の印刷会社社長と口喧嘩もした懐かしい場所ではあるが、今はあまりスナックに行かなくなったので、ご無沙汰している。その同級生は、空手部出身なので取っ組み合いにならず口喧嘩だけで終わったのが幸いであった。飲み代は地元なので私が払ったのであるが、翌朝お礼の電話が福島に帰る途中の彼からあった。
(文責:岩澤信千代)