🗓 2020年11月14日

 私の生地にある神明神社の銀杏の木である。
 東城戸の地名の起こりは1600年の神指築城の時にある。上杉謙信の嗣子景勝が豊臣秀吉の命により新潟から会津120万石に入封し新城を建設した。直江兼続が城普請の中心になり、広大な城を建設した。お城を作るのに設計図を作るのだが、「縄張り」といった。東の城戸になる場所なので東城戸といわれた。いわゆる表門に当たる大手門になる場所だった。裏門はからめ手であり西城戸といった。隣の村は神指町西城戸である。城の中心に近い高瀬という場所があるが、当時生活していた人々は城づくりのために一村全部移転させられた。河東村に高瀬という同名の地域があるが移転された人々が同じ地名にした。
 新城建築は謀反だと主張する徳川家康の言いがかりに対し逐一反論した直江兼続の「直江状」は大変有名である。
 豊臣勢が関ヶ原の戦いに敗れたため石田三成に与した上杉家は120万石から30万石に減らされ米沢藩に移封された。石高が4分の1になったのに上杉家はすべての家臣を引き連れ米沢に移った。尚且つ藩主の後継問題で半分の15万石に削減された。加藤清正など江戸幕府初期には改易、取り潰しされる大名が多かったのであるが、大老格であった会津藩主保科正之が上杉のお取り潰しを救った話は有名である。その時赤穂浪士で有名な吉良家から養子をとった。藩領の大幅削減から財政悪化が常態化していたのを救ったのが、九州秋月藩から米沢藩に養子に入った上杉鷹山ようざんである。

さて、イチョウの木に戻るが、町内会で公民館を新設することになったのだが、邪魔な銀杏の木を伐採することを町内会の総会で議題になったことがある。その時古老(女性)が言った。「村の銀杏の木があるために遠くにいても銀杏の木を目標に我が家に帰る。銀杏の木を目指せるから足取りも軽くなる。絶対に切って欲しくないと。」と頑強に抵抗した。
 実は銀杏の木はもう一本あり公民館建設地のすぐ横の銀杏の木を議題にしていたことが判明し、古老の希望は当然にかなえられ大きい銀杏の木は残ることになった。

前にも書いたが私の子供の頃は「戦争ごっこ」が流行った。私たち年少組は年長者から木の枝を集めるように命じられた。それを木の中腹まで運び、年長者が枝の間に編み込んでいき数人が木の上の陣地で遊べるのである。その陣地に行けるのは年長者のみで幼年組は建設の下働きのみさせられたので、どんな形状だったのか私は知らない。私たちは下から見上げるだけである。その陣地は「戦争ごっこ」に役立ったのかもわからない。ただ、年長者の自己満足であり大本営の機能をはたしていなかったのは実感として覚えている。

(文責:岩澤信千代)