🗓 2023年07月15日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

毎日暑い日が続いています。そういう時には冷たい飲み物は欲しくなります。冷蔵庫がなかった時代、井戸水でも随分ひんやりとしていました。昔はそれを甘くした「冷や水」として販売もしていたようです(これが「年寄りの冷や水」です)。
「冷や水」よりもっと冷たい「氷水」や「かき氷」もあります。とはいえ製氷機が発明されなければ「かき氷」は存在しませんから、現在のような「かき氷」が一般化したのは明治以降ということになります。
もちろん製氷機がなくても、夏に氷を食べた記録は平安時代以前からありました。というのも、宮廷では「氷室」という保存庫を設けていたからです。冬の間に氷や雪を蓄えておいて、それを夏に取り出して味わっていたのです。古い記録としては『令義解』(718年)の「主水司」条や『日本書紀』仁徳62年(720年)条に「氷室」が出ています。
「氷室」から取り出された氷については、平安時代の文学作品にも引用されています。たとえば『枕草子』183段「いみじう熱き昼中に」には、

扇の風もぬるし、氷水に手をひたし、もてさわぐほどに、(321頁)

とあって、「氷水」に手をひたしたり氷を触ったりして涼をとっています。同様のことは『源氏物語』常夏巻にも、

いと暑き日、東の釣殿に出でたまひて涼みたまふ。(223頁)

とあって、大勢の君達が、

大御酒まゐり、氷水召して、水飯などとりどりにさうどきつつ食ふ。(同頁)

と、「氷水」を飲んだり氷を入れた水飯を食べていました。もっとも印象的なのは、蜻蛉巻で中宮の御八講の折、薫が女一の宮を垣間見る場面です。

氷を物の蓋に置きて割るとて、もて騒ぐ人々、(248頁)

ここは氷の塊を割っているところですが、割った氷は、

心づよく割りて、手ごとに持たり。頭にうち置き、胸にさし当てなど、さまあしうする人もあるべし。(249頁)

とおのおの手に持っています。中には頭に載せたり胸に当てたりなどみっともないことをする女房もいたようです。

そんな中、女一の宮は、

いとうつくしき御手をさしやりたまひて、拭はせたまふ。「いな、持たらじ。雫むつかし」とのたまふ。(同頁)

と、氷が解けて雫が垂れるのがわずらわしいといって、手に持つのを嫌がっていました。

氷にまつわる話がこんなに長く語られるのは珍しいようです。でもこれで終わりではありません。女一宮を垣間見た薫は、それを妻の女二宮で再現させているからです。当然氷も、

氷召して、人々に割らせたまふ。取りて一つ奉りなどしたまふ心の中もをかし。
(252頁)

と割って、女二の宮に持たせています。

平安時代でも夏に氷を楽しむことはできました。そんな中、『枕草子』四二段「あてなるもの」には、

けづりひにあまづら入れて、あたらしき金鋺に入れたる。(98頁)

とあって、「甘葛」をかけた「削り」が出ています。これが「かき氷」の起源としてよく引用されているのですが、実はもっと古い例がありました。それは『うつほ物語』国譲り巻に、妊娠中の女一宮が食欲不振となり、

物も聞こしめざず、削り氷をなむ召す。(204頁)

と「削り氷」を食べていました。それを聞いた仲忠が、妊婦は冷たいものを口にしない方がいいというと、女一の宮は、

はでは、いかでかあらむ。(同頁)

と、反論します。ただし氷に「甘葛」はかかっていないようです。

その他『栄花物語』巻25「みねの月」巻にも、

尼上も、月ごろ御心ほれて、はかなき果物もきこしめさで、消え入り消え入りせさせたまへば、けづり氷ばかりを御前に置きて、絶えず勧めまゐらせける。 (487頁)

とあります。娘の寛子が亡くなって、母の明子は放心状態となり、何も喉を通らないので「削り氷」を食べさせているところです。この場合は病人の食べ物ということでしょう。

もう一例、藤原定家の『明月記』元久元年(1204年)七月二十八日条にも、

有寒氷、大理自取刀被削氷云々

と出ています。ただしこれは「削り氷」ではなく「氷を削られ」と読めそうです。

こういった平安朝の「削り氷」を現代の「かき氷」のルーツと見なすのがいいのか、それとも似て非なるものとすべきなのか難しいところですね。