🗓 2020年07月01日

本会樋口副会長と斗南会津会へ贈呈した「白虎隊殉難図」を披露した「斗南藩献霊祭」について話していたところ、「うちの資料に内藤家老のところに嫁いだ先祖がいる。お墓も泰雲寺にある。」

早速斗南会津会の山本会長に話をしたところ、「うちに資料があるから調べてみる。」とのことであった。

山本会長は内藤家戊辰時の当主内藤信節(のぶこと)の曽孫である。樋口「嫁いだのは三和と言って内藤保全のところであり、6人の子供がいたと記録がある。」山本「7代目に信全という人がいて樋口家から妻を娶ったという記録がある。昭和62年に泰雲寺で「自刃殉難墓誌建立」の除幕式と120年祭が行われたがそこに樋口英子、樋口義容の名前がある。」

樋口「英子は私の母で、義容は私の弟だ」

ここでついこないだまで樋口家と内藤家は親戚づきあいをしていたことが判明した。戊辰時の当主信節(のぶこと)の父可隠は一族で菩提寺である泰雲寺に避難したが時に利あらずと悟って一族19名が自刃し、寺に火を放った。

樋口さんが「保全」と読んだのは「信全」であった。

まさに奇跡の瞬間であった。来年にむつ市で挙行される斗南立藩150年式典で両氏が会えるかどうか?

「白虎隊図」がひょんなことから一族の懸け橋となった。

私と樋口先生も不思議な縁でつながっている。会津村の支配人をしているときに東北大震災が発生し、大熊町の方々が会津若松に避難されていた。

大熊町の方々を元気づけようと桜の木を植えようという企画が有志の間に起った。桜の苗はあるのだが植える場所がないので会津村で提供してくれないかという話があり私の高校同級生であるオーナーI君は快く要請に応じた。その時「大熊町復興の碑」が桜の苗木のそばに建立されたが、その字を揮ごうしたのが樋口朝亭さんなのである。

その時のやり取り以降5年ほど音信不通であったのだが、福西本店で美術館がオープンしたときにばったり出会った。たまたま車の中に発行したばかりの「戊辰150年記念誌 薫猶を選びて」があったので謹呈した。昼頃お渡ししたのだがその日の午後電話があった。「本の中に書いてある岩澤巌とは私の父が”がんちゃん”と呼んでた人ではないか。」

色々話していると私の大叔父に当たる巌は大東文化大学卒業である。樋口さんの父親も樋口さんも大東文化大卒である。まさに”がんちゃん”であったのである。

そんなことで八重顕彰会を立ち上げたときに樋口さんに発起人になってもらい副会長職になって頂いた。不思議な縁は続く。話の延長で自然農法の話が出て社会保険労務士Kさんの話が出た。なんと私のよく知るK氏の奥さんと樋口さんの奥さんは高校同級生で非常に仲が良いという。早速K氏に電話し顕彰会の会員になってもらった。

最近分かったことなのだが、まだ続く。クラスが違い話をしたこともない高校の同級生にA君がいて、東大医学部を出て医者になった。なんと奥さんがそのA君の姉だという。

坂下に中野竹子の墓がある法界寺がある。この前訪問し奥様に資料を見せていただいて親切な説明を受けた。その奥様は高校の教師をしていてある女子高で樋口さんと同僚であったという。

不思議な縁が重なるものだ。時間が会えば一緒に法界寺を訪問しようと話している。