🗓 2019年11月30日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

「八重の桜」に関連して、私は2年の間に公私合わせて5度も会津若松市を訪れ、八重ゆかりの地を巡った。慶山にある大龍寺もその一つである。そこへうかがったのは、山本家の墓所にお参りするためだった。
 1931年(昭和6年)9月、八重は故郷会津若松の大龍寺に「山本家之墓所」という立派な石碑を建立している。その碑名は八重自身が書いたものを石に彫り込んである。既に80年も経過しているので、石が風化して文字が読みにくくなっているが、石碑の裏には「昭和六年九月合葬山本権八女京都住新島八重子建之八十七才」と刻まれている。
 誤解されているかもしれないが、この石碑は誰かのお墓というわけではない。あくまで墓所であることを示す案内である。「合葬」というのは、山本家代々の墓を整理して1ヶ所に統合したという意味である。その近くにある墓石を見ると、山本某と記されていることがわかる。ただしそこに八重の近親者(両親や兄弟)の墓はない。もちろん八重の墓もない。みんな京都の同志社共同墓地に埋葬されているからだ。
 さて昭和6年というのは、八重が亡くなる1年前のことである。「八十七才」は数えであり、満85才であった。この時期、山本家は相続人が途絶えていた。兄覚馬も母佐久も、そして覚馬の娘みねも久栄も既に亡くなっている。唯一、みねの一人息子横井平馬が山本家を相続していたが、その頃の交流の記録は見当たらない。なお平馬には覚太郎という長男がいたとのことであるが、やはり山本家を継いではいない。
 八重は新島へ嫁いだ身なので、相続人の資格はなかった(姉の窪田某も同様である)。それにもかかわらず、「山本権八女」という肩書きで墓所を整理し、碑を建立しているのである。もはや八重以外に、山本家の墓守りをする人はいなかったのだろう。おそらく自らの死期が近いことも自覚していたに違いない。今元気なうちにやっておかなければ、この先山本家の墓は所在不明になってしまうか、あるいは散佚してしまう恐れがある。八重自身、墓参りに来ることはもはやできないと覚悟していたようだ。これは八重の万感の思いがこめられた石碑なのである。
 もう一つ誤解されていることがある。昭和6年9月に建立されたのだから、当然八重も9月に大龍寺に来ていると思われていることである。しかしながら八重の「病状経過並に臨終」(『追悼集Ⅴ』53頁)によれば、8月以来病の床に臥していた。風間久彦宛10月7日付のハガキにも、

私事去ル八月中頃より少々気分悪敷く九月二日より二三日まで床に付、よふよふ看護婦も返し、先是にて丈夫に相成可申。

と記されていた。だから9月に会津若松に行くことは不可能だった。
 そうなると9月は碑が完成した日であって、もっと以前、おそらく八重が最後に会津若松を訪れた昭和5年4月に、建立の一切を依頼していたと考えた方が自然であろう。日付を「九月」にしたのは、戊辰戦争のことが念頭にあったからに違いない。新政府軍との戦いに敗れ、鶴ヶ城を開城したのが慶応4年(明治元年)9月22日であった。その時、八重は「明日の夜は」歌を詠じているのだから、その日を忘れるはずはあるまい。山本家にとっても、父権八と弟三郎を失った忌まわしい戦の記憶であった。
 墓所が建立された翌年の6月、八重は86才で亡くなり、遺体は若王子山頂の同志社共同墓地に埋葬された。そこには兄覚馬はもとより、山本家の人々の墓も並んでいる(ただし離れている)。昭和6年以降、八重の墓は同志社によって管理されていたのだ。これまでは校祖新島襄だけが墓参の対象だったが、「八重の桜」が放映されたことによって、これからは八重や覚馬の墓にもお参りする人が増えることだろう。
 一方の大龍寺の墓所にしても、八重が無名だったこともあり、それ以降ほとんどお参りする人はいなかった。ところが「八重の桜」効果で俄に有名になり、多くの観光客がお参りに訪れるようになった。八重が石碑を建立しておいたことで、所在不明になることを免れたのである。