🗓 2019年11月25日

八重と蘇峰

 
 同志社在学中の徳富蘇峰と新島八重はまさに天敵以外のものではなかった。蘇峰は鵺(ぬえ)とあだ名で八重を呼び、新島襄には敬愛をもって接するも、こと八重には「新島先生と別れなさい。」とまで言った。いつも思うのだが「ぬえ」というあだ名はよく考えたと蘇峰をほめたくなる。「八重(やえ)」と「鵺(ぬえ)」は発音が近い。ぬえは猿の顔、狸の胴体、手足は虎、尾は蛇の形をしている。また鳴き声はトラツグミだ。このトラツグミは、阪神ファンが喜ぶようなトラの皮のような羽毛をもっているが、鳴き声が尋常ではない。Uチュウーブで聞くとわかるが「ユーレイ」と鳴いているような本当に不気味なのである。
 平家物語に「鵺退治」の話が出てくる。平安時代に天皇のご寝所に毎晩のように不気味な声が響き渡り睡眠不足に陥った天皇は病気になってしまった、加持祈祷を行ったが効果はなく、弓の達人源頼政に怪物退治を命じた。先祖の源頼光より受け継いだ弓で頼政が鵺を退治したあと天皇の病状はみるみる回復した。その時頼政は天皇から「獅子王」という刀を褒美に貰った。私は上京の折、時間があると上野の博物館や美術館に足を延ばす。企画展の内容は忘れたが、見学し一般展示のスペースにも足を延ばした。そこで驚いた。刀剣展示場に「獅子王」が展示されていたのである。伝説と現実が交錯したのに驚いた。
 実は「不一・・・新島八重の遺したもの」を書いているときにこの刀剣の写真を掲載しようとしたのだが、国立博物館であるから手続き・費用など支払いなど煩雑の為断念した。

ちょっと調べたいことがあり図書館で「会津人群像」NO.38を借りてきた。そこで興味深い論文があった。「蘆の花のようにー徳富蘆花の生涯―」で著者は木村令胡氏である。蘇峰と蘆花は不仲で蘆花の死ぬ直前に和解がなった話は有名である。その文章の中に蘇峰と八重の茶席の模様が描かれている。出典は不明であるがそこから引用する。
 「・・・・その後に新島八重が京都の自宅に造った茶室、寂中庵で徳富蘇峰に茶を勧めながら静かに語りかけた言葉が甦るのだ。『軍事増強を煽っている蘇峰さんの刊行物「国民新聞」を非難します。言論が人を動かす。それを誰よりよくご存じの貴方が、その力をどこに使おうとなさるのか。―力は、未来を切り開くために使わねばなんねえ、そうでねえべか』裏千家の茶人である八重の点てた茶をゆったりと三口で飲み切った蘇峰は、最後に残ったお茶をズズッと音を立ててすすると茶碗を返しながら、『もうどうぞおしまいにしてください』と茶道に則ったと解釈の成り立つ挨拶をした。その声は茶室の静寂より物静かで柔らかでさえあった。その挨拶を受けた八重もまた、茶碗を左手に持ったまま軽く挨拶を受け、茶碗を正面の手前に置くとあらためて『おしまいにいたします』と挨拶を返した。」

この文章で私が気付いたのは軍備増強には八重が否定的であったこと、それは「そうでねえべか」と会津弁をもってきていることでわかる。我々会津人は知っている。物事を本当に主張するときは標準語より会津弁に説得力があることを。

「新島八重回想録」というのがあるが、軍人が八重に取材して本にしたもので少しデフォルメが加えられている。軍国主義に結びつけるように誘導している部分がある。八重はそのことを十分に知っていたので封建主義を「昔の習慣で君主の為」と「昔の習慣」と言っており、太平洋戦争に向かって進んでいる「天皇のため喜んで死ぬ」(八重の時は君主松平容保のため)という時勢に抵抗している。平石弁蔵の「会津戊辰戦争」も大正に発刊されたもので「君主の為死も恐れず」戦った会津戊辰戦争は好む好まずにかかわらず軍国主義擁護に利用されたのであった。戦争遂行しようとする勢力にとって、大日本帝国憲法下では主君(天皇)のために命を投げ出すというのは大変利用価値があったのである。残念ながら白虎隊もその流れで捉えられてきたことも事実である。

以上のように、会津戊辰戦争を経験した八重にとっては、クリスチャンでもあるしどちらかというと平和論者でなかったかと思う。今紹介できないが、覚馬が新島襄の死去に伴い少しの間同志社の臨時総長をした時の演説は「反戦」のことが中心の話であった。

(文責:岩澤信千代)