🗓 2025年05月17日

吉海 直人

5月15日は葵祭の当日ですね。ではみなさんは葵祭について、どれくらい知っていますか。面白いことに、ほとんどの人は単独の葵祭りそのものではなく、『源氏物語』葵巻に描かれた葵の上と六条御息所との車争いによって、副次的に葵祭のことを記憶しているのではないでしょうか。そのためとんでもない勘違いをしている可能性があります。みなさんは大丈夫でしょうか。
 そもそも葵祭は平安朝の初期、弘仁元年(810年)に始められた賀茂神社(今は上賀茂神社と下鴨神社)の例祭です。嵯峨天皇が伊勢の〈斎宮〉にならって賀茂の〈斎院〉を設け、自身の皇女・有智子内親王を初代斎院に任じたのがその起こりとされています。その後、斎院制度は廃絶してしまいました。現在は観光行事の要素が付加されていますが、賀茂神社の祭礼として行なわれています。ですから皇族の〈斎王(斎院)〉に代って、民間から〈斎王代〉が撰ばれています。それでも京都三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)の一つとして賑わっています。また今でも宮内庁から職員(勅使)が派遣されていることで、日本三大勅祭の一つ(春日祭・石清水祭〈南祭〉・葵祭〈北祭〉)にもなっています。
 『源氏物語』葵巻にはこの葵祭について描かれています。冒頭に桐壺帝が譲位し、弘徽殿腹の東宮(朱雀帝)が即位したことが書かれています。新たに斎院も卜定ぼくじょうされました。新帝最初の祭ということで、例年より賑やかに行なわれたようです。その目玉商品は、当時宰相兼右大将だった光源氏が御禊ぎょけいの行列に供奉ぐぶすることでした。
 これは行列を盛り上げるための特別なはからいなのですが、大将という重々しい源氏の職掌からすれば、自分より格下の役目を仰せつかったことになります。光源氏にとってみれば、決して素直に喜べる役目ではありませんでした。そこに朱雀帝新体制(右大臣一派)による源氏の臣下としての据え直しが、密かにそして確実に行われていることが読み取れます。
 光源氏に連動して、源氏に従う随身に関しても右近の将監じょうが任命されています。実はこれも格下の役目であり、必ずしも名誉なものではありませんでした。この右近の将監は、光源氏の分身として機能させられているように読めます。そういった政治的なかけひきを背後に含みながら、斎院の御禊が表向き盛大に行われているのです。
 この御禊という儀式は、正式には賀茂川で行われるものですが、現在は賀茂神社内の御手洗川(池)で行われています。それが終わった後、斎院一行は一条大路を通って紫野の斎院に入ります。その行列を見物しようと、一条大路には立錐の余地もないほど物見車が立ち並びました。
 実は今回の行列のメインは、新斎院ではなくやはり光源氏でした。美しい源氏の姿が見られるとあって、遠方からも見物客が押し寄せています。源氏とかかわりのある女性達も競って見物にやってきました。後からやってきた葵の上一行は、準備不足で場所の確保もしていませんが、そこは権勢を誇る左大臣家の地位と権力に物を言わせ、身分低そうな牛車を無理やり立ち退かせます。たまたまそれが身をやつして見物に来ていた六条御息所の網代車あじろぐるまだったのです。
 これが有名な葵の上と六条御息所との「車争い」の真相です。要するにこの「車争い」は、正しくは「車の所争い」(場所取り)なのです(吉海「源氏ゆかりの地を訪ねて―賀茂例祭と車争い―」『源氏物語の鑑賞と基礎知識9葵』(至文堂)平成12年3月)。しかも「車争い」とは名ばかりで、実際は葵の上方による一方的な乱暴狼藉でした。それを正妻と愛人(妾)の身分差の喩と見ることも可能でしょう。この時の屈辱的な敗北が、御息所の生き霊を誘発する契機となり、物語は葵の上の死へと大きく展開することになります。
 ところで最初に述べた勘違いですが、この有名な「車争い」が起こったのは、決して葵祭の当日ではありませんでした。それは祭以前のうままたはひつじの日に行われる斎院御禊ぎょけいの日のできごとだったのです。それにもかかわらず、車争いを祭の当日と勘違いしている人が少なくありません。みなさんは大丈夫でしたか。
 では葵祭の当日はというと、斎院一行は紫野の斎院を出発して賀茂神社へと向かいます。その日、光源氏はオフで、公的な仕事はありませんでした。そこで紫の上を誘って祭見物に出かけます。この時源氏も場所取りをしていなかったのですか、幸いなことに老女源典侍げんのないしから絶好の場所を譲ってもらいます。その際、源氏の恋人を気取る源典侍は、源氏が誰か特別な女性(紫の上)と同車していることを咎めます。
 先の御禊の日の「車争い」が、葵の上と六条御息所の対立であったのに対して、祭の当日は、源典侍と紫の上の対立(もう一つの車争い)が描かれていることになります。この場合、紫の上の素性は秘められたままですから、紫の上が勝ったことになります。あまり目立ちませんが、このことは重要な要素の一つでした。というのも「葵」という植物は、単に祭りに必要なだけでなく、「逢ふ日」という掛詞としても機能しているからです。
 そう考えると葵巻のもう一つのクライマックスは、後半に描かれている光源氏と紫の上の「新枕」ということになります。これこそがもう一つの「逢ふ日」なのです。これによって源氏の妻の座が、葵の上から紫の上へ引き継がれたことになります。『源氏物語』ではこういった掛詞の面白さ・重さがわからないと、物語を本当に味わったことにはなりません。