🗓 2023年01月14日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

京都の名所として金閣寺(鹿苑寺)や銀閣寺(慈照寺)をあげる方は多いかと思います。ただしその金閣寺と銀閣寺が、共に臨済宗相国寺派に属しているというか、相国寺の塔頭たっちゅうの一つという位置づけになっていることはご存じでしょうか。
 もともと金閣寺も銀閣寺も足利将軍の別荘として建てられたものでした。金閣寺は三代将軍・足利義満で、銀閣寺は八代将軍・足利義政ですね。それが後にお寺になるわけですが、二つとも相国寺の管理下に置かれていたというわけです。必然的に相国寺の管長が、両寺の住職を兼ねていました。
 ということで2019年の3月までは相国寺の有馬頼底管長が金閣寺・銀閣寺の住職を兼務していましたが、その後、新しい規則ができ、管長は二つまでしか兼務することができなくなりました。そのため同年の4月から、銀閣寺の住職として新たに佐分さぶり宗順さんが就任しています。
 ところで金閣(鹿苑寺舎利殿)は三島由紀夫の小説で有名なように、表面が金箔で覆われています。だからこそ金閣寺と称されているわけです。それに対抗するというか、銀閣(慈照寺観音殿)寺は金箔と対になるように銀箔が貼られたので銀閣寺と称されるようになったといわれていました。みなさんもそう聞いているかと思います。かつては小学校の教科書にもそう書かれていました。
 ところが近年、銀閣寺を徹底的に調査したところ、かつて銀箔が貼られていた痕跡はまったく見当たらないことが判明したのです。銀箔を貼る予定もなかったとのことです。ですから古くは銀閣寺とは呼ばれていませんでした。実は金閣寺も同様で、金閣寺と呼ばれるようになったのは江戸前期からだとされています。
 一方の銀閣寺の名が初めて見られるのも江戸前期以降で、『洛陽名所集』(万治元年・1658年)という名所記の中に「銀閣寺」と記されているのが初出とされています。それがいつの間にか定着してしまったことで、銀箔が貼られていたという神話ができてしまったのです。要するに銀閣寺の銀は、江戸の観光ブームが作り出した幻想だったのです。ちょっとガッカリですね。
 では何故銀閣寺という幻想が定着したのでしょうか。どうして誰も銀に見えないといわなかったのでしょうか。実は当時、銀閣寺は銀箔が貼ってあるように見えたようです。というのも、もともと銀閣寺には黒漆が一面に塗られており、それが劣化したことで白く見えていたようです。だから銀といわれても納得したというわけです。ついでにいえばお寺側でも、それで観光客が喜ぶのならその方が寺にとっても都合がいいということで、長く否定してこなかったともいわれています。
 さてここからミステリーの世界になります。みなさんは銀閣寺と大文字送り火の深い関係をご存じですか。大という字の中心には、十字型の金尾かなわがあります。そのタテの線を下にずっと延ばしていくと、銀閣寺を通って相国寺に辿りつくそうです。それをさらに延ばしていくと、金閣寺そして左大文字に至るとされています。つまりこのすべてが一直線上に並んでいるのです。
 もちろんその中心に臨済宗の相国寺があり、銀閣寺も金閣寺も相国寺に属している寺ですから、そうなると左右の大文字は相国寺と深く関わりがあることも納得されます。それは大文字送り火の起源にもかかわってきます。
 大文字送り火の由来ははっきりしていないのですが、有力な説の一つに足利義政創始説があります。なぜ有力かというと、それが大文字の歴史と一番うまく合致しているからです。というのも長享三年(1489年)三月、25歳(満23歳)の若さで九代将軍・足利義尚よしひさが急逝してしまいました。その死を悼み冥福を祈るために、父の義政が始めたという説です。それに附随して、大の字は義政が横川景三おうせんけいさんに書かせたという説もあります。
 今度大文字の送り火を見る時は、相国寺の近くから見てください。「大」が正面に見えますよ。