🗓 2023年04月14日
「会津の残照」(田村幸志郎著:会津と長州 恩愛の絆)を昨日から読み始めたのだが、あまりにもいい加減なので読むのをやめた。
いきなり、時系列も不明なまま坂下で飯沼貞吉と楢崎頼三が邂逅しているからだ。貞吉は喜多方不動堂で傷をいやしていた。よくなって猪苗代謹慎所に出頭した。どうして坂下に行く必要があるのか?執筆時は筆者は高遠生まれで山口県在住だそうだ。不動堂から猪苗代謹慎所に行くのに坂下は遠回りである。全く地理がわかっていない。坂下で会った日日も特定できてない。それに楢崎頼三が坂下に行く理由も全く見当たらない。猪苗代謹慎者名簿に貞吉の名前がある前の年に頼三は会津藩士以外の捕虜を江戸に護送している。
降ってわいたような結論から話を進めていて支離滅裂だ。林三郎の塾に行ったのは根拠がないと言っているがそれを書き残しているのは貞吉の弟の飯沼関弥である。
極めつけは青森県三戸に建立された白虎隊碑に貞吉の名前があるのは「息子の名前が墓碑銘に記録されているので家族も戸の口原で戦死したものと信じていたのだろう。」えっ?猪苗代謹慎所でも東京護国寺の謹慎所でも謹慎者名簿に父親の飯沼時衛と共にはっきりと飯沼貞吉の名前も記録されているのですよ。ちゃんと家族は時衛を通じて貞吉が生きているのを知っていますよ。
余りにいい加減な記述が多いので、他の文章もそんなものだろうと読むに堪えないので読むのをやめた。
こういう人達が集まって、長州人が白虎隊士を助けたという美談を作り上げたのだろうなあ。美祢市に「恩愛の碑」はあるのだろうけど架空の話による蜃気楼に近い。高見ふさ周辺の口伝を根拠にしたもので資料的な裏付けは何もない。楢崎頼三の馬を会津なまりの少年が引いてきた。頼三が「さださあ」と呼んでいた。ふーん?さださあがなんで貞吉になる?貞光・佐田助かも知れないではないか。
その後、読むのをやめたつもりだったが、著者の故郷「信濃の国」に対する一貫した郷土愛を覗きたくなり、その後を読んでみて驚いた。
なんと私が卒業した県立会津高校の前身である福島県立会津中学校の浅岡一校長の名が出てきたではないか。母校では毎年成績優秀なる生徒に浅岡賞を贈与している。調べてみたら明治期の偉大なる教育者であった。「信濃の国」という長野県歌があるが、その成立にも深く関わっていた。長野尋常師範学校の校長を経て東京の華族女学校の教授を務め、明治39年(1906年)福島県立会津中学校(現会津高校)校長に赴任した。浅岡校長は二本松藩士の子孫であり戊辰戦争では鉄砲組として出陣し、白河の戦争で負傷した。
著者は信濃(長野県)愛が強くて、会津藩の武士道は保科正之に山形経由で従った信濃高遠藩の出身の高遠衆が武士団の中核を占めていたからだと力説している。飯沼貞吉長州説と違い、その考えは当たらずとも遠からずで否定するつもりはないが保科正之本人の資質に追うことが大きいのでは。
(文責:岩澤信千代)