🗓 2023年11月24日

最近、梶原平馬が本によく出てくる。近江幸雄著「会津斗南藩と函館開拓使」にも出ていた。会津藩士の出世頭(札幌本道の総責任者)雑賀重村を中心に簗瀬・一ノ瀬家族が函館上大工町(末広町)に肩を寄せ合って暮らしていた。すべて斗南から渡ってきた人たちである。重村の妻浅子は簗瀬三左衛門の三女であり、重村は一ノ瀬家が実家である。付近に梶原平馬が住んでおりよく訪ねてきたという。梶原平馬の兄内藤介衛門の妻が重村の妻アサの姉であるから平馬とは義兄弟の関係にあった。

他の本によると梶原平馬と水野貞子は東京か京都で知り合い結婚した。平馬は一時会津に帰り大町一の町に住んでいた。水野貞子は函館で科塾を開いていた。その後根室の花崎小学校に招聘された。などと断片的に伝えられるようになった。

戊辰敗戦後、藩主に替わり一藩の罪を背負い自刃した萱野権兵衛だったが、責を負うべきは梶原平馬か西郷頼母ではなかったかと私は今でも思っている。ただ頼母は京都守護職事態を申し入れているので、終始主戦論を展開した梶原平馬の方が責任はあると思っている。

戦争中は奥羽越列藩同盟成立にお奔走した梶原平馬だが、斗南に行ってからは山川浩が権大参事となった。経歴上平馬がその位置に立つべきところ山川浩が任命された。戦争中籠城戦では山川浩が軍事担当、梶原平馬が政務担当であった。斗南藩において梶原平馬でなく山川浩が総責任者になったことがいかなるる理由によるものか。ここら辺に黙して世を去った梶原平馬の謎が隠されているものと思われる。

明治13年に函館高龍寺に「傷心惨目」の石碑が建立された。

(文責:岩澤信千代)